柳生新陰流の発祥の地、武士道精神を引き継ぐ剣道の聖地「柳生」での剣道は、貴方に新しい人生を与えるかもしれません。

History of Yagyu Kendou

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柳生の剣道の歴史

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柳生の剣道の土壌

 柳生は、奈良市の北限にある鉄道も通ってないような過疎化が進む県境の田舎です。かつては山間部にありながらも結構栄えたところで、パチンコ屋も、剣道用の武道具店もあったのですが、今や、公共交通機関の奈良バスも奈良市からの補助金運営をしながらも、1時間に1本もこないようなところです。ですからここに、柳生新陰流の歴史がなければ、日本全国にあまたある、ただ単なる田舎の一つと言っても過言ではありません。

 しかしながら、柳生と言えば、全国に響き渡る特徴があります。それは剣道がとても盛んだということです。

 それをお示しできることとして、小学校中学校で剣道の授業があります。高校での武道教育は普通ですが、小学校中学校では稀であり、これは全国でも珍しいことです。

 また、柳生新陰流の全国大会は、柳生芳徳寺にある武道場(正木坂剣禅道場)で開催されることが恒例となっています。柳生新陰流をつぐ剣士自体は、柳生では少数高齢となっていますが、それでもその土壌を引き継いだ日本剣道連盟所属の柳生剣友会の少年少女の剣士たちは、奈良市の大会をはじめとし、奈良県の大会、関西の大会、果ては武道館での全国大会に出場するまでに活躍し、他県への剣道国内留学中学生として活躍している者もいます。

 そんな剣道土壌を醸し出した、柳生新陰流とは一体どんな剣術流派なのでしょうか?

 また、戦国から江戸時代に柳生新陰流の本山とも言える柳生芳徳寺とはどんなお寺なのでしょうか?

柳生新陰流とは

 柳生石舟斎宗厳が考案した剣術流派で無刀取りがその特徴にあげられる剣術のことです。その剣術流派には、徳川家康を始めとし、戦国諸大名に教授した歴史があります。その結果現在の柳生新陰流は、東京、名古屋、福岡などにその流派をつぐ道場がありますが、石舟斎が治めていた柳生の地では、過疎化の理由もありほとんどその流派を受け継ぐものはいない状態です。しかしながら、今でも柳生新陰流の全国大会は、ここ柳生の正木坂剣禅道場で毎年開催され、柳生剣友会からも動員がなされています。

柳生新陰流を支える柳生芳徳寺と正木坂剣禅道場とは

芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺院。柳生藩主柳生氏の菩提寺であり、本尊は釈迦如来で、裏の墓地には柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並びます。

柳生剣宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立し、代々柳生の菩提寺として維持されました。

廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義の弟・基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳は、芳徳寺の再興に奔走、柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけました。柳生新陰流の本山ともいえるべき正木坂剣禅道場と柳生氏に関する資料館が併設されています。

地元の方に聞くと、基本的には柳生剣家以外檀家を持たないいわば祈祷寺であるとのことです。

正木坂剣禅道場

昭和38年(1963年)に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道と座禅の道場。柳生三厳の正木坂道場に習って命名された。橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われました。奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一乗院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されています。

柳生新陰流の歴史

 世は戦国の時代、代々柳生庄(奈良市柳生町)を領する柳生氏当主・柳生家厳の嫡男として生まれた柳生(後の石舟斎)宗厳は、戸田一刀斎に富田流、神取新十郎に新当流を学びその奥義を治めて五畿内外で名を知られていた。
 
 宗厳36歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が、上洛の途上に奈良を訪れたことを知り、試合を申し込んでみるに、諸説あるが、惨敗した。宗厳は、信綱が編み出した新陰流に完敗したことで、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。

 翌永禄7年(1564年)、宗厳の才能を認めた信綱は、「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、当初の目的だった京にのぼる。

 永禄8年4月に再び信綱が柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して、信綱にその術を認められ『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられた。これによって、柳生における新陰流、つまり通称柳生新陰流が始まった。

 宗厳は信長、秀吉などの戦国大名に使えるも、一時は柳生の庄隠田の科に処せられて、本領を失い柳生家は大いに困窮した時代もある。

宗厳66歳(1592年)の時、剃髪・入道して石舟斎と名乗った後、(1594年)5月、京都鷹が峰、御小屋で徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示した。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した。家康は宗厳に自らの側で出仕するように求めたともいうが、宗厳は固辞し、同行していた五男の柳生宗矩を推挙した。

 この頃宗厳は、後に関ケ原の戦いで西軍の大将として家康と争う毛利輝元にも兵法を教授しており、文禄4年(1595年)以降に複数の目録を与えている。 兵法を通じて徳川家と毛利家から援助を受けるようになっても柳生家は困窮していたと見られ、文禄4年7月には旅先から妻に宛てて、自分が死んだら茶道具を売り払っての葬式代に当てるようにと遺言状を送っている。

 徳川家に宗矩を仕えさせつつ輝元にも兵法を指南する状況は慶長3年の豊臣秀吉没後もしばらく続き、 慶長4年2月には輝元に対し、皆伝印可として起誓文を提出している。起誓文ではこれまでの数年間に渡る輝元からの「扶助」について礼を述べ「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記すと共に、「兵法」だけに限らず「表裏別心のない」ことを自ら誓っており、関ケ原の戦い前年のこの時点での宗厳はむしろ毛利寄りという意見もある。

関ケ原の戦いから死没

慶長5年(1596年)7月、上杉景勝討伐の途上で石田三成の挙兵の報を受けた家康は、宗厳宛ての書状を宗矩に託して柳生庄にかえし、筒井順斎と協力して大和の豪族を集めて石田方を牽制するように命じた。 宗厳は宗矩と協力して家康の命を果たしたと見られ、同年9月13日に家康の元に戻った宗矩は、家康に無事工作を終えたことを報告している(『徳川実紀』)。 宗矩は関ケ原の戦いの本戦に家康の本陣で参戦し、徳川方が勝利すると、これらの功績を認められて、没収されていた柳生庄の本領二千石を与えられた。

慶長8年(1603年)、熊本藩主・加藤清正の要請に応えて、戦傷を負って隠居していた長子・厳勝の子の柳生利厳を加藤家に仕官させる。宗厳は旅立つ利厳に『新陰流兵法目録事』を与えると共に、利厳の気性を案じ、利厳が死罪に相当する罪を犯しても3度までは許すように清正に願い出たという。 しかし利厳は、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出た。

翌年の慶長9年(1604年)、旅先の利厳に皆伝印可状を送り、利厳が柳生庄に帰還した際には、自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切を併せて授与した。

慶長11年(1606年)4月19日に柳生庄にて死去。享年80。法名は「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。奈良市の中宮寺に葬られるが[38]、後に宗矩が柳生家の菩提寺として芳徳寺を開基したため、芳徳寺に墓所がある。

没後
宗厳の死後、家督を継いだ宗矩は二代将軍・秀忠および三代将軍家光に新陰流を伝授し、その門弟も剣術指南役として諸藩に採用されて、宗厳の流れをくむ新陰流は「天下一の柳生」と称されるほどの隆盛を誇った。宗矩は大目付も務めるなど幕政にも関与して加増を重ね、総石高一万二千石に達して柳生藩を立藩するに至る。

一方宗厳の孫・利厳は御三家尾張徳川家初代当主・徳川義直に仕えて兵法を伝授し、尾張徳川家御流儀としての新陰流の地位を確立した。その後も尾張藩では代々新陰流は特別の格式を以て遇され、現代にいたるまで連綿と新陰流を伝えている。

人物・逸話
医師の曲直瀬道三と親交があり、道三が宗厳と梅窓の両人を相手に健康管理のあり方を問答形式で語った『養生物語』がある。

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下記、順次、関係者などに確認しながら説明文を固めて行きます。今の所、無作法をお許しください、

宗厳の門下
印可状・目録・入門の誓紙が現存する門下[32]
当主自身が門下に入門している家、及び当主
徳川将軍家  : 徳川家康(文禄3年入門)
長州藩毛利家 : 毛利輝元(慶長4年印可)
浅尾藩蒔田家: 蒔田権佐(慶長7年印可)
大名家に仕えた門弟
徳川将軍家 : 三好新右衛門尉(文禄4年印可)、金春七郎(慶長11年印可)…金春流63世宗家
熊本藩加藤家→尾張藩尾張家:柳生利厳(慶長9年印可)
その他の門下
三好左衛門尉(天正9年印可)
松田源次郎(慶長9年印可)…柳生家家臣
柳生厳勝(慶長11年印可)
印可状・目録が現存していない門下[40]
大名家に仕えた門弟
徳川将軍家 : 柳生宗矩(柳生藩初代藩主)[注釈 3]
岡山藩小早川家→ 米子藩中村家 : 柳生宗章
紀州藩紀州家: 村田与三[注釈 3]
長州藩毛利家→ 黒田家福岡藩: 柳生(大野)松衛門[注釈 3]…有地新影流流祖
土佐藩山内家 : 小栗正信…小栗流流祖
その他の門下
柳生新次郎厳秀
村上清右衛門…戸田三太刀流開祖
福野七郎右衛門正勝…良移心当流流祖
伊岐遠江守直利…伊岐流槍術流祖
伊藤善斎…香取流流祖
佐々木茂左衛門
大石佐左衛門正縄
高野善右衛門重綱

https://goo.gl/maps/JG3DZBq4xCKNmxsv7

https://goo.gl/maps/JG3DZBq4xCKNmxsv7

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柳生堂窪田武道具店10数年前まで柳生と言う片田舎にあった具道具店。人口現象の影響で移転しているが、「柳生」を名乗っている。

あとがき

 歴史家が語っても語りつくせいない歴史は星の数ほどあると同じように、柳生剣友会のホームページ管理者(二段)が柳生の剣道の歴史を語りつくせないことは同じと考えてもらうと、歴史家には大変失礼であるとは思いながらも、経緯上、ホームページの形を整えるために、大変おこがましいいことだとは思いながら、柳生剣道の歴史のページを作った。
 不備なところ、歴史検証に矛盾があれば、直ちに書き直すので、剣道のご指導と友に是非ご教授いただきたいと思う次第である。

 管理者は大学時代に長崎大学の剣道部に属していたが、弱かったので、全学のレギュラーなど程遠い存在であった。しかしながら大学には学部別全国大会などもあったので、かろうじてその大会にレギュラーとしてでることができていた。その後32年間竹刀を振ったことはなく、剣道など二度としないであろうと思っていたが、再びすることになった。理由は、肩こり防止と老化防止である。

続きはまた

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